藤原由紀乃のショパン「練習曲集」の素敵な名演奏
藤田晴子
ショパンの「練習曲集」は、ピアノ演奏の大名人ショパンの天才が創出した芸術的作品である。しかし練習曲集の芸術性に酔って、その芸術性をことさらに強く表現する演奏が、一般的にあまりにも多く行われている。普通の人なら、張り切って強弱やテンポ・ルバートをことさらに誇張したくなるような箇所でも、藤原由紀乃は、謙虚に又、賢明に「練習曲」の芸術性を特に強調しないで、ごく自然に、しかもここが大事だと思うが、豊かな表情で演奏している。これほど激情的でないショパンの「練習曲」は珍しいのではないだろうか。藤原由紀乃の「良識」に感心する。将来、藤原由紀乃の気が変わって、強弱やルバートが少し増加する時が来るかもしれないが、それならそれもよい。でも現時点では、自制のきいた上品な演奏が貫かれている。それは「練習曲」の性格を非常に鮮やかに表現した演奏であって、他のピアニストには多分そこまでの心くばりができない特徴なのだと思う。つまり、みんなは、もっと騒々しく弾くのがショパンの練習曲にふさわしいと、おのずから思い込んでいるのではないだろうか。ここまで書いてもう一度聴き直してみると、藤原由紀乃の演奏は、タッチの粒が練習曲にふさわしく、よく揃っていて、実に見事である。長年のドイツの恩師で、今は闘病中のシュタードラー先生からの直伝の心の耳で聴く音楽、魂で表現し、歌う音楽が「練習曲」の演奏にぴったりの生かされ方をしているのに感心する。今は療養に余念のないドイツの先生を離れて、日本で暮らす藤原由紀乃の、師から継承した魂の耳で奏でるすぐれた特徴がいつまでも持続して、人々の心を捉え、うるませ続けることを心から祈る。
藤原由紀乃の柔らかいタッチは、他の誰も真似られない美しいもの。それを自由自在に駆使して、ギクシャクしない演奏が豊かにできる藤原由紀乃は、宇宙にただ一人の人である。このピアニストと同時代に生きる喜びを私たちは満喫することができる幸せにひたっている。素敵な経験である。大切にしたい経験である。藤原由紀乃との出会いの宿命的な幸運に心から感謝しないではいられない。
藤原由紀乃の、いつも穏やかな、言わば「癒し」に満ちた演奏を思い浮かべる人は、このピアニストが無類に正確に指が動く事実を、うっかりとして気付かない。それほど藤原由紀乃のタッチは完璧なのである。それぞれの曲に絶対必要な、ぎりぎりの表現以外は確信しない徹底した慎ましさが藤原由紀乃の演奏には貫かれている。少なくとも今まではそれが大きな特徴であった。将来、年齢とともに表現に仮に意外な多彩さが加わることがあっても、それはそれで美しく貴重なことだと思うが、今の時点では、あまり騒々しくないほうが、いかにも藤原由紀乃にふさわしく奥ゆかしい。けばけばしさのない、こういう演奏が心の表現として出来るピアニストは、宇宙で藤原由紀乃ただ一人なのである。平凡なピアニストが藤原由紀乃の真似をして弾いたならば、退屈になる場合もあり得るだろう。しかし、どんなに穏やかに弾いても、聴き手の心に生き生きとした力を与えるのが藤原由紀乃の演奏である。それは人の心に確信を授ける音楽であると同時に、日常の生活に疲れた人々の心に深い回復をもたらす平静な音楽でもある。この不思議な力に浸っていると、聴き手は自分が音楽会場に居ることさえも忘れて、忘我の状態になるほど幸せなのである。こんな不思議な音楽を神様はよくぞ創って下さった。心が屈したとき、藤原由紀乃の音楽ほど、救いの音楽の役割を果たしてくれる音楽を探すことは難しい。
曲目解説は、栗山先生がお書き下さるので、喜んでいる。しかしごく有名な少数の練習曲の(解説ではなく)藤原由紀乃の「演奏」について、ほんの少し賛辞を書かせていただくことをお許しいただきたいと思う。例えば作品10の第(1)曲は、楽譜をたどりながら聴くと、いかに藤原由紀乃がまともな、よく揃ったタッチで全曲を豊かに弾き切っているかがよくわかる。
作品10の第(3)曲は、日本でよく「別れの曲」とよばれる名曲で、中間部など普通のピアニストはごま化して、いかにも上手に弾いたように弾くが、藤原由紀乃は、どの音も真正面からきちんと弾いている。作品10の第(12)曲「革命の練習曲」でも、あの難しいフレーズを、藤原由紀乃は一つのごま化しもなく、豊かなエクスプレッションで貫いていて、心から感心させる。
低音に美しい長いメロディが長い息を続ける作品25の第(7)曲の美しさは、なんにたとえようもない。もともと素敵なこの曲が、こんなにも美しく弾けるものかと粛然としてしまう。だれにでもできる業ではない。通称のついていない美しい「練習曲」も多数、藤原由紀乃はむりやりの表現を避けて、印象深く弾いている。そういう曲に軒並み出会って、どの曲をここに選んで取り上げるべきか大いに迷ってしまう。
「木枯らし」の通称で皆に尊敬され愛されている作品25の第(11)曲は「革命の練習曲」(作品10の第(12)曲)より幅のひろがりがある大曲であるが、この曲の類稀な立派さは、どんなにたたえても、たたえ切れない。藤原由紀乃の天才をよく知っている人は、その壮大な美しさに、あらためて感心するが、はじめて藤原由紀乃の演奏のすばらしさに気付いた人は、一様に藤原由紀乃のかけがえのないファンになり切ってしまう。作品25の第(1)曲、第(2)曲の演奏もゆるぎなく、奥が深い。
藤原由紀乃は、ただ漫然と弾いているのではなくて、よく研究して弾いている。それは、むかしからあるペータース社版と、パデレフスキー他2名が校訂した版と、ヘンレ社版の楽譜を見比べながら聴くと、はっきりとわかる。藤原由紀乃が必要以上に混み入った表情をつけていないこと、そしてそれ故に、「練習曲」的表現が貫かれていることは確かであり、しかもそれと平行して自然な表情が豊かに鳴り響いていることは、ほとんど信じられないほどである。藤原由紀乃は楽しんで、この巨匠の魂の奥深くから響き伝わってくる調べを弾いている。それは一点の濁りも迷いもない輝きに満ちている。
それは又、明るい太陽の、優しい光を想わせ、又、満天の夜空の星たちからの清らかなメッセージを伝える、比類のない安らかな調べでもあるのである。
藤原由紀乃後援会天草支部会員 栗丸 積
ショパンのエチュードは、多くのピアニストによって数多く録音された作品であり、大型のCDカタログを覗くとその数は数十にも及ぶ。大半の録音が60分以内、中には50分そこそこのものもあるくらいで、音楽を聴かされるというより、それぞれのピアニストがいかに優れた指使いを競うものと見られることもあるらしい。それこそ疾風怒濤のエチュードばかりだ。その中で由紀乃さんのショパンは67分40秒に及ぶ、おそらく最長の演奏時間を誇る異色の録音であろう。由紀乃さんの演奏の特徴として、並外れた技術の持ち主であるのにもかかわらず、音楽から腕自慢を見せ付けるというある種の嫌らしさがいささかも感じられず、時間と共に自然と時間が流れ、聴き手を何の無理なくその世界に誘うというところであろう。非常にゆっくりとしたエチュードであっても聴き手にいささかも飽きさせない由紀乃さんの演奏に驚きを禁じ得ず、ここに真の芸術家としての見識の高さが遺憾なく発揮されている。疾風怒濤のエチュードは性急な現代人の好むところかもしれない。なるほど慌しい時代にあってそのような演奏がはやりかもしれない。由紀乃さんはゆっくりと時間をかけてエチュードを奏で、ゆっくりと過ぎて行く時間の愛おしさ、儚さを表現しようという姿は、むしろ共感を覚える。そして、人はそれを「癒し」と呼ぶ。しかし、そこには「癒し」というより、神無き不壊の時代とされる時代のあり方に対する由紀乃さんなりの問題提起であり、抵抗であるかもしれない。音楽とは音の芸術であると同時に時間の芸術であることを再確認させてくれるこの由紀乃さんの録音を大切にしたい。
ショパン・練習曲集[藤原由紀乃]
岡田由紀夫 2002.9.4(水)
最高の一枚。もうこのCD以外ではショパンのエチュードを聴く気にはなれない。バックハウス以外にエチュードをこんな風に弾ける人がいるとは思わなかった。両者に共通しているのは、演奏困難な練習曲を弾いてそのテクニックで感動させるのではなくて、あくまでも歌のようなものとして聴かせることができるという点。藤原由紀乃の手に掛かると、ショパンの練習曲は--普通のピアニストの演奏で聴かれるような--音の秩序ある流れ(運動)によって爽快感をもたらす音楽ではなく、むしろリート(歌)かなにかのようなものになる。いや、もちろん24曲からなるショパンの練習曲は元来非常な多彩さを持っており、ピアノのテクニックを追求しながらもあくまで詩的であるようなものも少なくないが、しかし誰が弾いても(というのはもちろんプロのピアニストに限ってということだが)聴き手をうっとりとさせることができるような曲ではなく、例えば作品10-1や4、それから作品25-8などのとかくメカニック重視になりがちな曲で、ここまで聴き手の心に訴えるような演奏ができる人は、藤原由紀乃以外にはいるまい。このCDはショパンのCDを聴き飽きたというような人にこそ聴いて欲しいと思う。私などは、まるで初めてショパンのエチュードの魅力に気づいた時のような新鮮さでこのCDを聴くことができた。ショパンの練習曲のCDを買っても大抵は聴かずに飛ばしてしまうような「黒鍵」や「蝶々」ですら、藤原由紀乃が弾くと面白い。 (関東)
ショパン・プレリュード全集「24のプレリュード作品28&2つのプレリュード作品45、遺作」
藤原由紀乃後援会名古屋支部会員 武田 昇 2005.4.30(土)
藤原由紀乃様
新しいCDを有り難うございました。もとから、由紀乃さんのピアノは、大変透明度の高い、素晴らしくきれいな音で、それだから私は大フアンになったのですが、その度合いが、今回のCDは更に高くなった気がします。とにかく1音1音が澄み切っているな、と驚いたのが第1印象です。これらの曲の多くは私は中学時代からArthur Rubinsteinのレコードばかり聴いて、彼の演奏が1つの基準になっていました。今回の由紀乃さんの演奏を聴いて、そのイメージがすっかり変わりました。Rubinsteinの演奏は装飾音が多すぎる気がします。由紀乃さんの演奏は飾らず、奥の奥まで、ピアニッシモまで、きれいな音として完全に耳に(というより、心に)入ってきました。大好きな4番や7番、16番は中学時代の思い出と重なって、たまらない心地になりました。4番なんか、由紀乃さんが永遠の少女であるような気がしました。本当は批判的なことも言ってあげるべきかも知れませんが、私のレベルでは、かけらも不満や問題点を見つけることができません。またお会いできる日を夫婦ともども楽しみにしております。
ブラームス・2大変奏曲集
藤原由紀乃後援会会員 伊東 元 2006.7.9(日)
前略
新しいCD(ブラームス)を聴きました。貴女の演奏する姿が浮かび音のひびきを強く感じました。今回 曲目解説が貴女自身であることに大きな驚きと喜びを感じました。私の持論は、曲目解説は演奏者自身が書くものであるということです。何故なら、作曲家と向かい合ってその心を音にするのは演奏家です。演奏家こそがその曲の作曲家と同化出来る唯一の人です。その人がどのような気持で作曲家の心を感じ、演奏するかを書いてこそ、真の曲目解説であると信じています。どうか今後も今回と同じように貴女が解説を書いて下さい。今後、結婚が「貴女の素敵な音楽表現になり、そして人生になります」ことを心からお祈り致します。お身体お大切に。
草々
追伸 次回CDは「バッハ・ゴールドベルグ変奏曲」をお願い致します。次回お会いする日を楽しみにしております。